誰の役にも立たない

2021、シニカルと読書の目標

いろんな人があけましておめでとうと言ってるのを見て、何がめでたいのか分からなくなってきている。私は都合のいい時だけ綺麗事を信じて周りが綺麗なことを言いだすとぜんぶ疑いたくなりがちだ。こういうのは批判的な思考というものではなく単純に性格が悪いんだろうなと思う。

今年の目標は2つある。

1つ目はシニカルを増量すること。具体的に言えばなんでもホイホイ信じない、いくつかの異なる立場から物事を考える、といったところである。

私はアホなのでわかりやすいものにすぐ共感してしまう。他人の言ってることにもすぐ影響を受ける。極まれば陰謀論とかもすぐ信じてしまうと思うし思想的にも偏るしで良いことがないと思う。こういう時皮肉屋的成分(それ即ち想像力とも言えるか)が役に立つのだろう。一回立ち止まる、情報の背景をよく調べて意図を考える、何が言いたいんだお前は?を考える。それをやる。

2つ目は問いを立てながら読書をするということだ。去年読書に時間を割いてみてわかったのだが、自分の興味に基づいて目的を持って(ぼんやりとでも問いを立てて)選書した方が読書が捗った。来年からは読書に時間がどれだけ割けるか分からないので闇雲に本を読めなくなりそうなのは少し残念ではある。

直近興味があるテーマとしては、アメリカとイギリスの文化の違い(ロック、ヒップホップなどの音楽とファッション、資本の関わりなど)とお笑いについて。もうある程度買う本は決まっているためお年玉でジュンク堂に走りたくてウズウズしている。

これら2つの目標を立てた先にぼんやり見据えているのは「善さ」(正しさ?)とは何かという疑問に対する模索である。これに正解はないし「善さ」は国や時代によって基準が変わってくる。それでもやっぱりその時その時のベストを尽くしたいと思う(それは私が気持ちよくなりたいだけなのだが…)。ただそのためには自分なりの正解を考えて日々改めていくしかないと思う。そのために知識を蓄えつつ思考していく、その感じを忘れずに生きたい。正直仕事はいつまで続くかは分からないが、私が私に責任を持って自分の善を探す、改める。何事も成せなくてもそれだけ意識してれば良いやと思う。まずは。

体裁を気にしたり規範意識だけで判断したりするの、そういうの全部ウザいから今年はもうやめたい。適当の筋肉を鍛えたい。

如何に生くべきか、生活態度が確立しておれば、そこには下らない悲劇はない。騙された、とか、人の犠牲になった、とか、そういう受け身の新派悲劇は有り得ず、すべては自己の責任に於て行われているから、失敗も、そこから立ち直り伸び上る踏石となり、次の歩みのフミキリとなる。

坂口安吾『男女の交際について』

this is my 本棚↓ちまちま読みます

フジサワの本棚 (フジサワ) - ブクログ